彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。このそれぞれに質を違えて襲って来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初に於(おい)て働いていたように思われたからである。彼は苦痛を、譬(たと)えば砂糖を甜(な)める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味(うま)かったか。 ――俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先(ま)ず透明でなければならぬ。
横光利一 「春は馬車に乗って」
文学少女に憧れてた中学時代、新潮文庫の「機械・春は馬車に乗って」を手に取ったのは、タイトルがなんだかロマンティックで、すがすがしかったから。
けれども、内容は不治の病で自宅療養の妻を看病する作家の夫の視点で書かれた、中学女子にははっきり言って意味不明(だったであろう)な夫婦の最後の日々の物語。
死の床についた妻は夫に対して、八つ当たりや嫉妬三昧。
日々妻は夫をなじり、夫はなじられながらも妻の看病と生活を支えるために原稿を書く。
お互いギリギリのなじりあいを繰り返しながら、その挙句、本当にわかり合い、死に向かう。
繰り返される苦痛を「砂糖を甜(な)める」ように「吟味しながら甜め尽してやろう」と決意し、自らの体を一本の透明なフラスコだと言い表した、そのフレーズが強烈に印象に残っている。
避けられない苦悩に直面したとき、こうでも思わないとやってられないってことか。
あるいはいわゆる「ドM」ってやつか。
はじめてこの小説を読んだ頃から30年ほど経った今、「あ~ワタシ今フラスコかも~」と思うこともよくあるわけで。
キツイことが続いてもうろたえたり、凹むことなく、今は味覚を研ぎ澄ませて吟味してるとこなのよ、別に平気!と自分に言い聞かせつつ乗り切るというひとつの解釈を身に着けたのは歳の功ってやつなのかなあ。